2008年10月30日

カール=ヤスパース『哲学入門』第四講 神の思想A

神が果たして存在するかどうかは問題ではなく、信じているかどうかが問題なのである。

ところで、神を信じているという基準はどこにあるのか。

その人の生活の中にある。その人の行いの中にある。

神に限らず、何かを信じるということは、何らかの形で「信じている」ということが生活に反映されていなければならない。そうでなければそれは「信じている」のではないのだ。

神を信じている人は、神に祈り、神に感謝するだろう。そういった行動をとることが、彼が神を信じているという基準になるのである。つまり、神が実在するかどうかとは、やはり関係はない。

あっ、ここにわたしが書いていることは、ヤスパースの本とはなんら関係がない。ただ「神の思想」という章題からの思い付きである。

ヤスパースが神を持ち出して何かを語ろうとすることもまた、彼が神を信じているということを示している。

わたしは神を信じてはいない。だが、ヤスパースが神と呼んでいるものは信じているのかもしれない。

「神を信仰するということは、私たちが超越者の暗号とか象徴とか名づけるところの現象の多義的な言語として存在する以外には、いかなる仕方においても、この世界内において存在しないようなあるものによって、生きることをいうのであります。
 信仰せられる神は、遠い神、隠れた神、証明不可能な神であります。」

ここでヤスパースが書いていることは、神が存在しないということである、とわたしなら解釈する。だがわたしには、「神」という言葉をのぞけば、ここでヤスパースが言わんとしていることはよく解るのである。

だが哲学に関しては、ヤスパースはここでいう「超越者の暗号」を読み取るのが哲学することであると言う。

しかし、言語を超えたものに対しては、言語で理解できるものではない。哲学とはむしろ、それが我々の理性を超えているということを正しく理解することではないかと思う。
posted by nasty_habit at 23:16| 兵庫 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月29日

スマリヤンのパズル

レイモンド=スマリヤンの紹介するパズルにこんなのがある。(「スマリヤンの決定不能の論理パズル」より)

賞品1と賞品2の2つの賞品があって、あなたは何かを口にすることになっている。もしあなたの言ったことが本当なら、私は2つのうち(どちらかはわからないが)片方の賞品をあなたにあげることにする。もしまちがったことを言えば、どちらもあげない。たとえば「1+1=2」と言えば、どちらかの賞品が確保できるのは明らか。どころが、あなたはどうしても賞品1がほしいとする。賞品1を確実に手に入れるには、なんと言えばよいだろう?


スマリヤンの答と解説は次の通り。

「あなたは私に賞品2をくれないでしょう。」もしあなたの言ったことがまちがっていると仮定すると、私は賞品2をあげる、ということになる。ところが、まちがったことを言えばどちらの賞品もあげられないのだから、この仮定はまちがっていて、あなたはまちがっていない、つまり正しいことをいったことになる。正しいことを言ったのだから、あなたの言うとおり、私は賞品2をあげることはできない。しかし、あなたが正しいことを言った以上、私は約束に従って片方の賞品をあげなければいけない。そして、それは賞品2でない以上、賞品1になる!


しかしこれはおかしい。

「あなたは私に賞品2をくれないでしょう。」という発言に真偽を問えるのだろうか。つまり、将来に対する言明に、いま現在の時点で、真偽を決定できるのかということである。できない、というのがその答である。この発言は「窓を開けろ!」という命令文と同様、真偽の問える発言ではないので、この種のゲームに適した発言ではない。

スマリヤンよ、大丈夫か?!
posted by nasty_habit at 22:08| 兵庫 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月28日

自足

シノペのディオゲネスは「自足して生きよ」という。

自足とは、自分で自分をコントロールすることをいう。己だけを自分の支配者とするのだ。他の何者にも、環境とかもろもろのものに支配されるなということだ。


最近、禁酒が続いている。

べつに体のことを気遣っているわけではない。節約のためだ。節約していると自分がストイックになったようで、楽しい。いままではもっぱら酒と本にしかお金を使うということがなかったのだがそうはいかなくなった。デート代を確保せねばならない。デートのことを考えるとストイックさが消え、エピキュリアン気分に浸り、これもまた楽しい。

飲まなくなったメリットはしかし、お金が減らないという以外まったくない。体調が良くなったということもない(もともと良かった)。二日酔いはなくなったがこれはべつにメリットとはいえまい。もちろんお金を減らさないのが目的だったのでそれ以外のメリットがなくとも何の問題もない。

しかし。


書けなくなった。


考えてみずとも、いままで書いているときは常に酔っぱらっていた。「一斗、詩百篇」のごとく、飲めばいくらでも書けた。最高だ。

さて、人は自分をコントロールせねばいけない。環境に頼ってはいけない。酔っていないから書けない、では話にならない。

酔っていないからこそ、意志を振るいたたし、飲んでいない自分に鞭を入れ、書き始めようじゃないか。こうなると、まるで自己鍛錬しているようで、楽しい。

「自足」とは、自分を支配することをいう。支配者はもちろん自分自身だ。酒がわたしに書かせるのではなく、わたしがわたしに書かせるのだ。


どうだい、出来るだろ?



祝福の美酒を、だれかおごってくれないか?
posted by nasty_habit at 05:34| 兵庫 ☔| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月18日

過去は未来に影響するか

過去の出来事が、いまわたしが覚えていることも忘れてしまったこともすべて含めて、現在のわたしを作りだしている。

わたしは過去から逃れることはできないのだろうか。

しかし、明日のわたしに一番影響を与えるのは、今日のわたしなのである。

今日のわたし次第では、ある意味で、過去を断ち切ることが出来るのである。昨日までのわたしが、未来のわたしを決定的なものにしているわけではない。

今日という日は、あらたな自分を創りあげる第一歩なのだ。
posted by nasty_habit at 01:42| 兵庫 ☀| Comment(2) | TrackBack(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月14日

わたしとは何か

「我思う、ゆえに我あり」というのは、おそらく何も言っていないのに等しい。

もちろん激しい睡魔に襲われたからといって、それでわたしの存在が証明されるわけでもない。

ここでは「証明」など必要とされていない。わたしはじっとわたしの手を見る。それで十分だろう?

ではここでわたしの手をじっと見ている<わたし>とは何だろうか?

たとえば、昏睡状態のとき、自我は消失しているのだろうか。
あるいは、怒り心頭で思わず我を忘れてしまうときに、実際のところ、いったい何を忘れているのだろうか。
二日酔いの頭を抱え、昨夜の記憶がまったくないとき、あの酩酊していた夜に失ったものは何だったのか(財布や部屋の鍵だったりする)。

何かが消えているのかもしれないが、<わたし>ではない。なぜなら、後から、これらの状態にあったのはわたしだったと言えるからである。<わたし>とはこれらの状態のときに失われるものではない。

では、<わたし>とは何だろうか。

たとえばこの身体を「わたしの身体」と呼ばれるものにするのは<わたし>である。

これ以上問うことは、ないはずだ。

以下、ウィトゲンシュタインの『哲学的探求』より引用する。

このことは、言語、命題、思考の本質を問うことのうちに表明されている。――なぜなら、たとえわれわれが自分たちの探求の中で言語の本質――その機能や構造――を理解しようと努力しても、それはこのような問いの目指しているものではないからである。つまり、こうした問いは、本質なるもののうちに、すでに公然と明るみに露呈しているものや、整理することによって、一目瞭然となるものを見てとっておらず、何か表面の背後に横たわっているものを見ているからである。それは、内部にあるもの、われわれが事がらを見通したときに見るもの、そして分析によって掘り出されるべきものだ、というのである。
<本質はわれわれには隠されている>これがわれわれの問いのいま仮定している形式である。われわれは「言語とは何か」「命題とは何か」と問う。そして、これらの問いに対する答えは、一度に、いかなる将来の経験とも無関係に、与えるべきものだというのである。

哲学者たちが語――「知識」「存在」「対象」「自我」「命題」「名」など――を用いて、ものの本質を把握しようとしているとき、ひとは常に次のように問わなくてはならない。いったいこの語は、その元のふるさとである言語の中で、実際いつもそのように使われているか、と。――


posted by nasty_habit at 15:26| 兵庫 ☀| Comment(3) | TrackBack(1) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月12日

睡魔

午前1時40分。

猛烈に眠い。

この眠気を感じているのは

「私」なのか?

睡魔に襲われているのは本当に

「私」なのか?

わたしが問いたいのは、
この眠気に襲われている「私」が俺なのか、ということである。

もちろん。

俺以外のいったい誰がこの眠気を感じ得ようか。
posted by nasty_habit at 01:47| 兵庫 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月06日

自己実現の第一歩

望まないことは、実現しない。

そんなことはない、

という声が聞こえてきそうである。

嫌だと思っていることが、現実には身に降りかかってきているのだから、そういう声が聞こえてくるのもうなずける。

いったい誰が、嫌なことが起こることを望んでいるというのか。

傘を持っていないときに大雨にあいずぶ濡れになる、などということをいったい誰が望むだろうか?

だが現実にはそんなことは山ほど起こっている。

望まないことは実現しない、というのは嘘なのだろうか。

いや、ここで大切なのは、「肯定的なものの考え方」なのである。

嫌なことや、避けたいこと、起こって欲しくないことを考えるのがいけないのである。つまり、起こって欲しくないことを思い描き、「おきませんように」とどれだけ願おうが、心に思い描いているのが「起こって欲しくないこと」ならば、それが潜在意識というやつに刻印されてしまうのだ。結果、起こって欲しくないことが起こってしまうのだ。

「楽天的に考える」とか「肯定的に考える」というのは、嫌なことを思い浮かべ、「そんなこと起こるわけないよ〜、あはははは」といったことではなく、ただ端的に、良いことを、望んでいることを、起こって欲しいことを心に思い描くことをいうのである。

もちろんそれが難しいのであるが、しかし、まさしくそれだけが自己実現への第一歩なのである。



posted by nasty_habit at 00:12| 兵庫 ☔| Comment(3) | TrackBack(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月02日

日付が変わる前に

たいして意味があるわけではない、
と思うのだが、
日付が変わる前に
更新しておこう。

時間がないので、
ただそれだけ。

ホント、意味がない。

ここに意味を付け加えようとすると、
きっと日付が変わってしまう。

どうでもいいだろう。

でもせっかくだから…
posted by nasty_habit at 23:59| 兵庫 ☀| Comment(5) | TrackBack(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月01日

うっかりしていた

気づいたら、

もう10月だ。

寒い。
posted by nasty_habit at 23:55| 兵庫 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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