2018年06月02日

わが国の哲学界や出版界の傾向

D.デイヴィドソン『行為と出来事』のあとがき、ではなく、訳者解説より。

「デイヴィドソンはクワインとともに現代のアメリカ哲学界の重鎮であるが、それでいて今なお現代英米哲学の旗手の一人であるとさえ言えるであろう。他の旗手には天才クリプキやハーヴァードのパットナムが挙げられると思う。(まだほかにも挙げるべき人々がいるかもしれないが、上の三人を挙げることに異論はないであろう。)それにもかかわらず、彼の業績はわが国においては、一部の専門家を別にすると、知られるところが少ないのではないだろうか。事実、彼の著作で邦訳があるのは、筆者の知るかぎり、'On the very idea of a conceptual scheme'と'What metaphors mean'の二篇にすぎない。(ともに論文である。前者は「経験主義の第三のドグマ」として土屋俊氏による邦訳が『現代思想』1985年7月号、169ー83頁に、後者は「比喩は何を意味するのか」として高頭直樹氏による邦訳がやはり『現代思想』1987年5月号、49ー69頁にある。)クワインの代表的な著作がすでにかなり訳され、クリプキの二つの代表的著書も訳され、パットナムの著書もいくつか訳されていることを考えあわせるとき、一抹の寂しさを感ずるのは筆者一人ではないであろう。わが国の哲学界や出版界の傾向を鑑みるとき、このような現状に至っている理由がわからないでもないが、現代哲学全般が現代英米哲学に大きな影響を受けていることを考えると、これは不幸な事態であると言わざるをえない。」

この「訳者解説」がいつ書かれたかは明確ではないが、「訳者あとがき」は1989年4月と記されているのでその前後であろう。

さて、いま、2018年現在、ほぼすべてと言っていいくらい、デイヴィドソンの著作は訳されている。

翻って、クリプキの著作はどうであろうか。上で言及されている二冊以外、現在に至るまで単行本は翻訳されていない(雑誌等には論文が訳出されているかもしれないがわたしはそこまではフォローしていない)し、そもそも単行本自体、わたしが知るかぎり、'Reference and Existence'と'Philosophical troubles'の二冊しか出版されていない。

これは、わが国の哲学界や出版界の傾向になんらかの変化があったためなのだろうか?
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2018年06月01日

言葉について

言葉は本当にその意味するところを意味することができているのだろうか?

誤解が生じるのは言葉の誤解によるものなのだろうか?

思ったことは、そもそも本当に言葉で正確に言い表せるものなのだろうか?

言葉で言い表せない「思い」とはどういったものなのだろうか?

それは「思い」がまとまっていないということではないのか?

だがしかし、実際にわたしは自分の考えていることをうまく言語化できずにいるのだ。

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2018年05月31日

松本清張を読み返す「黒い血の女」

「黒い血の女」(『突風』中公文庫)。

「実際にあった事件に取材した犯罪実話。」(郷原宏著『松本清張事典 決定版』より)。

実際にあった事件がどんなものであったか、わたしの検索能力ではヒットしなかった。

ノンフィクション・ノベルといった仕上がりになっている作品。
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2018年05月30日

残された日々で、どれだけのことができるか。

表題通りのことを考えている。
もう、新しい本とか、買う必要ないかも。

知識や情報を求めているわけではないのだから。
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2018年05月29日

松本清張を読み返す「穴の中の護符」

「穴の中の護符」(『突風』中公文庫)。短編時代小説。軽く読める作品。

『松本清張事典決定版』(郷原宏著)によれば「岡本綺堂『半七捕物帳』の形式を拝借して根岸の里の珍事件の謎を解く、遊び心にあふれた佳篇」ということである。

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2018年05月28日

表現力の欠如

オレには表現力が欠如している。

日頃様々なことを深くうじうじと考えているオレなのだが、どうもそれをうまく表現できる能力が欠如している。どんなに素晴らしく深遠なことを考えていても、それをうまく語ることができない。うまく書くことができない。

この能力の欠如はモノを書く人間としては致命的である。せめてもの救いは、オレがモノを書く人間ではないということだ。少なくとも今のところは。

だが実際には、どんな些細なことであれ、オレはこうして書いている。書くということの素晴らしさはここになる。オレにだって、表現力の欠如しているこのオレにだって、書くことはできる。誰にだって書くことはできる。

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2018年05月27日

努力、努力、努力。

近頃、努力という言葉に人気がない。まあ昔のことはよくしらないけど。オレが二十歳くらいのときはまだ努力という言葉は肯定的に語られていたように思う。だから、なにか発言するときには常に反対意見をいうことを心がけていたオレは、「努力などするべきではない」とよく言ったものだ。

当時、「努力などするべきではない」といった背景には、物事、苦しんで取り組むよりも、楽しんで取り組んだほうが結果がでるという考えがあった。いってみれば、努力という言葉に「嫌なことを歯をくいしばってやりつづける」という意味を読み込んでいたわけだ。

そして近頃、努力という言葉に人気がないというのは、そのような意味なのであろう。つまりは、当時のオレと同じような考えだというわけだ。そしてオレもいまでも物事には楽しんで取り組んだほうがよいとは思っている。

だが世の中実際には、楽しいことばかりではないという現実がある。楽しいことだけをやって生きていける人はそれでいい。そんな人に向かって言う言葉はオレにはない。勝手にしていろ、というくらいだ。そしてもちろんオレは、楽しいことだけをやって生きていける人間ではない。ことにここ数ヵ月、我が身に降りかかる困難の数々に立ち向かっていかねばならないのだ。あるいはその困難から逃げなければならないのだ。そしてその困難から逃れるためには全力を尽くさねばならないのだ。必死にならなければ、生きて行けないくらいなのだ。そしてもちろんオレは、そんなオレ自身に向かって語っているのだ。

オレは努力をせねばならないのだ。歯をくいしばって現状打破、あるいは現実逃避せねばならないのだ。

なんてストイックなのだ。素敵じゃないか、ストイックな人生は。なんだかディオゲネスみたいじゃない?努力している自分に惚れ惚れするのだ。

「努力」という言葉に恍惚とする。
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2018年05月26日

予防的正義

「コンピューターと人工知能が発達したおかげで、近いうちに、誰がどんな罪を犯しそうか予測できるようになったのだ」(ジュリアン=バジーニ著『100の思考実験』)。

思考実験においては、様々なことが前提にたてられる。たとえ受け入れがたい前提でも、思考実験ではそれを前提として受け入れ、実験が進められることになる。

そこで、上に引用した前提についてである。わたしには、この前提が成り立つのがどういう状況なのか、いま一つ理解できずにいる。「予測できるようになる」といえばどんなことだって「予測できるようになる」と思われる。とにかく予測さえすればいいのだから。だがもちろん、この前提はそういったことをいっているのではなく、その予測が当たるということなのだ。明日の天気を予測するのは誰にだってできる。「明日は晴れる」とテキトーに言えば、とにかく予測したことにはなるだろう。だが通常「予測できる」といえるためには、その予測が当たるのだということを意味していなければならないと思われる。では、明日の天気の予測が当たるとはどういうことだろうか。当然のことながら、明日になってその予測された天気になっているかどうかで決まる。明日になってなにかしらの天気が現実化されなければ、その予測が当たっていたかどうかはわからないということである。

では、上の引用の場合はどういうことになるのであろうか。予測するのは、近いうちに誰がどんな罪を犯すか、ではなく、どんな罪を犯しそうか、なのである。「犯しそう」なだけなので、実際になんらかの罪を犯さなくとも、この予測が当たったといえる状況はありえるのだ。つまり、あくまでも当該の人物がある罪を犯しそうなだけでいいわけだ。もうこの時点でわたしの頭は混乱している。たとえばわたしが誰かを殴ると予測されたのなら、わたしが誰かを殴ったときに、その予測は正しかったとわかる。では、わたしの状態がどうなったら、わたしが誰かを「殴りそうだ」ということになるのか。人混みのなかでわたしがイライラしているときなのか。目の前の意気がった男がなぜかわたしを睨み付けているときなのか。わたしが言ってもいないことを言ったとして避難されているときなのか。いや、もっと単純に、わたしが誰かに向かって拳を振り上げ、いままさに殴ろうとしているその状態のことなのか。だがそうなら、これは「殴りそうだ」という予測ではなく、まさに「殴る」という予測ではないだろうか。

などという混乱はさておいて、この思考実験のポイントは、まだ何も罪を犯していない人間を罰してよいかどうかということである。普通ならもちろんダメなのである。ときおり、これを是とする人を見かけるがそのような人のことは無視するとする。で、上の前提が成り立つ場合、つまり、ある人がある罪を犯すことが確実にわかっている場合、その人を罰してよいのかという問題である。

結論だけを書けば、わたしは自由主義者なので、罪を罰するよりも大切なことがあると信じている。それは、自由ということである。実際に罪を犯さないうちは、その人が何をしようがその人は自由であるべきなのだ。たとえその人が近いうちに無差別テロを実行するとわかっていても。

と、書いたところでふと思う。無差別テロを確実に実行する人間がそばにいると、こちらはかなり注意しておかねばならない。いつ実行するのかビクビクしていなければならない。実行するであろう時はその人から離れていようと思うだろう。こうなると、こちらの自由はかなり制限されてしまう。

ということで、簡単に結論だけを書くつもりでいたが、簡単に結論には至らなかった。

だがわたしは自由主義者なので、断固として「予防的正義」には反対せねばならない。つまり、「予防的正義」は正義ではないということを立証したいのだ。そして、「予防的正義」を擁護する理論はすべて論駁したいのだ。そのためにわたしは思考する。

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2018年05月25日

松本清張を読み返す「万葉翡翠」

「万葉翡翠」(中公文庫『影の車』)。

これも何度も何度も読んだ作品。にもかかわらず犯人の殺人の動機を間違って覚えていた。厳密にいうと覚えていなかったということなのだが、おぼろげに覚えていると思っていて、さらにその内容が間違っていたということで、人の記憶、とくにわたしの記憶はあてにならないものなのだとあらためて思った次第。

ところでこの作品、新潮文庫『駅路』や光文社文庫『共犯者』にも収録されているが、それぞれ微妙に違っている。ルビをふっているかいないかとか、漢字が少し違うとか、まあ内容には影響はない範囲ではあるが、このような違いは何か意味があるのだろうか?誰によって決められているのだろうか?
それはともかく、光文社文庫の松本清張短編全集11『共犯者』収録の「万葉翡翠」は次のように始まる。

「ぼくはね、万葉慎重古学をやりたいと思っていた時期があったよ。」

「万葉慎重古学」はあきらかに誤植で、正しくは「万葉考古学」である。わたしの持っているのは2009年8月10日2刷発行となっている。誤植のまま2刷となったのだろう。いまは訂正されているのか気になるところである。もちろん訂正されているとは思うが。

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2018年05月24日

自分を取り戻す

一日のうちのほんのわずかな時間。
その時間だけが、本来の自分を取り戻す時間。

この時間こそ、貴重な時間。
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