2018年04月11日

憂さ晴らしとしてのブログ

このタイトル。このブログにぴったりではないか。

今朝も。

いや、朝早くに目覚めることはわたしにとって良い兆候なのである。気分が清々しく感じられるのである。

なのに今朝も。

起きた途端、騒音に見舞われる。この騒音は外からではない。室内からである。詳細は省く。

せめてこうやって書くことだけが、愚痴とかそういったものを含めて、こうやって書くことだけが、わたしにとっての救いなのである。

自己の救済としての行動。

ただの憂さ晴らしだけど。

起きたの確か、一時間ほど前ではないか?

つまり、この一時間、騒音に巻き込まれ、無駄に過ごしてしまったということだ。




posted by nasty_habit at 05:35| 東京 ☀| Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月10日

ほぼ穏やかな一日

今日はほぼほぼ穏やかな一日であった。
そのわりには物事が思うようには進んでいない。が、こんな日にはそれほどそのことも気にならない。

ところで、なぜこんなに眠いのだろう。




 死神が僕を呼んでいるのだ。僕はそっと目の前のナイフに手を伸ばした。指先がナイフに届いたとき、電話が鳴った。その単調な音は僕の耳に心地よかった。僕はその音に耳を傾けながらナイフをしっかりと握りしめた。ある衝動が胸の奥に生じた。すべてを終わらせたいと思ったのだ。そう、死神が僕を呼んでいるのだ。
 そこで目を覚ました僕はひどく汗をかいていた。生きていたのだ。まだ?・・・・・・。
posted by nasty_habit at 21:24| 東京 ☀| Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

眠りにおちる

布団に入っていろいろと考え事をしているうちに、いつの間にか眠ってしまっていた。
朝、目覚めてホッとする。死なずに目覚めたんだなあ。

楽に、というか穏やかにかというか、そんな死に様のことを「眠るように死んだ」と表現することが度々ある。眠るときに、このまま死んでしまったらもう目覚めることはないんだろうなあなんて考えることがある。楽な死に方といえばこれほど楽な死はないだろう。しかし真剣に明日の朝目覚めないことを考えると背中がゾッとしてくる。やはりわたしは死ぬのが怖いのである。

なぜそんなに死が怖いのだろうか?それはすべてが無になるからである。死んでしまえばもうものは考えられない。目の前で起こっていることとかすべて知り得なくなってしまう。もう二度とこの世の中を目にすることは無くなるのだ。そう考えると恐怖を感じるのだ。

つまり、死んでしまえばそんなことも考えられなくなるので、恐怖などないということである。たぶん。死んだ後も怖いなんてまさか思わないだろう。すべては無になるのだから。

そう考えれば、生きているうちに死への恐怖を考えるのは馬鹿げている気もしないではない。だがやはり、自分が死んでも世界は存在し続けるのだろうな、と考えるとなんともいえぬ気分にはなる。自分の存在しない世界、そんなものはわたしにとっては無意味なはずだが、そんな世界も見てみたいと思わないわけにはいかない。おそらくはそれが出来ないことであろうことも、死の恐怖、少なくも死にたくないと思う理由の一つではあろう。

自分の生まれる前の世界についてはどうだろうか。歴史とかになってくるが、確かにそれはそれで面白味はある。だがそれはあくまでも、本を読んだり人の話を聞いたりして自分の頭の中に生み出した世界だといえはしないか。自分がいなかった世界ではあるが、その世界そのものは自分の頭の中にあるのである、という意味で、ここにはわたしが登場している。わたしが死んだあとにはこのことがあり得ないのである。やはり死ぬのはいやだなあと思わないわけにはいかない。

今晩眠るのが嫌になってきた、もうすでに眠いんだけどね。


posted by nasty_habit at 16:48| 東京 ☀| Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月09日

フロスト警部

DVDで「フロスト警部」を観ている。面白い。コロンボとはまったく違うタイプだが、。。。
詳しくはいま書けない。観てる最中だから。

原作とはまた違うが、原作はもちろん最高に面白いと思うが、それとは「別物」と思えば、ドラマ版もかなりいいと思う。

詳しくはまた後で書こう。何年後になるかはわからないが。


posted by nasty_habit at 16:50| 東京 ☀| Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月08日

なんで???

先々月から再開したこのブログ、わずかばかりだが、どうやら読んでいる人がいるようなのである。ほら、あなた、あなたですよ。
どこのブログでもそうだろうが、アクセス解析という機能がついている。これによってこのページを見た人が何人いたか、なんてことが、まあアバウトなんだろうが、分かるようになっている。わたしの場合はこれに特別な機能を搭載しているので、あまり公には出来ないのだが、訪問者の特定ができるようになっている。

もちろん嘘です。

なにが理由で見に来ることになるのか、よくわかりません。

読んでいる人がいると思うと、書きたいことが書けなくなってしまうので(あまりにくだらないからです)、あまり気にしないようにします。

ちょっと気になってしまったのでこんなことを書いたわけです。
posted by nasty_habit at 20:38| 東京 ☀| Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

くだらない一日

今日はまったくくだらない一日である。
いまからでもどうにかしたいものだが、出来そうにない。
オンラインで映画を観ようともしたがまったく集中できなかった。
その後もくだらないこと続きだ。
そう、

今もだ。

以上を書いてから3時間は過ぎている。たぶん。よく覚えていない。まだそれだけかって気もしないではない。
いずれにせよ、くだらないまま時間はすぎている。残りの人生、このまま終わってしまうような気がする。最低だ。

さらに数時間が過ぎた。

今日は疲れたからもう休む。。。

読みかけの本が数冊滞っている。なんだかなあ。。。(午後11時)
posted by nasty_habit at 17:19| 東京 ☀| Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月07日

離魂病

 これは或男が僕に話したことである。

「わたしには人の魂が見えるのです。親しい人の魂はまるでその人のように見え、あまり知らない人の魂は、これは見えるというより感じると言ったほうがよいかもしれません。

「ほとんどの人は覚えていられないものなのですが、睡眠中に魂が抜け出ている人は案外多いものなのです。

「実はわたしの妻もその中の一人なのです。わたしの妻ですから、その魂はまさしく妻そのものの姿でわたしの前に現れます。気配で魂だとはわかるのですが、夜中、こちらの寝ぼけているときなどは、はっきりしないこともあります。ふと横を見ると妻が寝ているので、ああ、いまこちらにいるのは魂なのだなと気づくというわけです。

「或夜、妻の体から抜け出た妻の魂が、わたしを誘惑してきたのです。もちろん夫婦ですから何の問題もないはずなのです。しかし、横を見れば妻の体が横たわっており、わたしの上には妻の魂が妻の姿形で伸し掛かっているのです。

「一体本当のわたしの妻は、どちらなのでしょうか?」

posted by nasty_habit at 10:45| 東京 ☁| Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月06日

ツイッターについて

ツイッターについてはよく知らないのだけれど、と書くと、他にはよく知っていることがあるのか?と思われるかもしれないが、わたしは自分のこと以外については何事もよく知らない。

昔は、あくまでもわたしの持っているイメージだが、「いま何してる?」「お茶してる」みたいな「つぶやき」が多かったように思えるのだが、LINEとかのせいか、近頃はそのようなツイートはあまり無いようである。よく知らずに書いているので間違っているかもしれない。間違っていたとしても以下に書くこととは直接の関係はない。

わたしが目にする範囲では、時事的なことについてのツイートが多い。安倍政権批判とか、反対に安倍擁護の意見とか、反原発とかいろいろと。その多くは、これもまたわたしの目にする範囲においてだが、いろいろと教えられることのあるツイートであったりする。

ところが、である。これは誰もがツイッターができるということの弊害と、多くの人が時事問題やその他に関してなにがしかのことを言いたいという欲求があることが原因なのか、とにかく、えっ?と思うようなツイートも少ないとはいえないくらい目にすることがある。内容もそうなのだが、それ以前の問題を感じないわけにはいかないようなツイートなのである。具体的な例をだすことは控えるが、要は、読解力に問題があるとか、読むに耐える文章が書けていないというようなことだ。

ツイッターだから、誰がどうやろうと本人の自由といえばそれまでなのだろうが、それにしても、自分のわからないこととか、自分の知的レベルを越えているようなものには口を出さないでいたらいいのにと思わないわけにはいかない。そして、ツイッターといえども、人前で文章を書いているということなのだから、もっと書く勉強をすべきではないのかとすら思う。

そんな人に絡まれると、かなりの時間の無駄になるのである。これはこちらが相手をしないということにせねばいけないのかな。
posted by nasty_habit at 22:49| 東京 ☁| Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

時間は流れる

過ぎない時間は時間ではない。

朝起きて「いま」がどうのこうのと思っていたことは、いまから見たらすでに過去である。つい5分前もいまから見たらもう過去である。時間は流れているのだなぁと実感する。この実感は、過去の時点から「いま」を見ることによって生じているように思える。一年前の出来事と半年前の出来事を比べてみても、時間が流れているという実感はでてこない。半年前と「いま」を比べることによって初めて「ああ、あれからもう半年にもなるのか」という思いが生じる。

そういう実感を持つにしても、実際に何かが流れているというわけではないだろう。「流れている」というのはあくまでも比喩であろう。「流れている」という比喩で語られるもののことを「時間」というのである。

なのでやはり、時間は過ぎるものなのである。

そして4月6日になってしまった。時の流れに恐れさえ感じる。
posted by nasty_habit at 00:04| 東京 ☁| Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月05日

人生の意味を考えようとする

毎日が矢の様に過ぎて行く。刻々と死へと進んでいく。ついつい、人生とは何かということを思ってしまう。

わたしの人生には意味があるという確信はしばしば揺らいでしまうものの(揺らいでしまうものが「確信」と呼べるかどうかという問題はここでは無視する)、人生には意味があるという確信は揺らがない。わたし自身の人生には意味がないのでは?という不安が頭をもたげても、そしてそれはしばしば頭をもたげるのだが、人生には意味があるという確信は揺らがないため、「人生には意味がある」「わたしの人生は人生である」「ゆえにわたしの人生には意味がある」という3段論法によって「わたしの人生には意味がある」という結論に達する。

だがもしこの結論が誤りならば、この推論そのものが間違っているかこの推論の前提が間違っているかのどちらかである。あるいは両方である。

この推論に誤りがあるかどうかを知るためにわたしは論理学を学ぶ。(独りでいないと何もできないわたしなので独学である。誰かが側にいるとその人がわたしのしていることを邪魔しているのではないかと思ってそれを言い訳にしてやっていたことをやめてしまうということが独りでないと何もできない理由である。)いまのところこの推論の間違いは発見されていない。(世の中何があるかわからないのでこれからも論理学の勉強は続けるだろう。ひょっとするとこのタイプの推論にも重大な誤りが含まれていることが発見されるかもしれない。)

あとは前提が誤っているかどうかである。ということで、「人生の意味とは何か?」あるいは「人生に意味はあるか?」という問にいきつく。

が、その問そのものに取りかかる前に冒頭に書いたこと、「毎日が矢の様に過ぎて行く」というところに少しだけこだわる。これはつまり時間は過ぎて行くということである。わたしはまるで時間が過ぎて行くことに異を唱えているようなのだ。

だがもし、時間が過ぎて行かないとすれば、それはもはや「時間」ではないのではなかろうか?
posted by nasty_habit at 08:47| 東京 ☁| Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする