2008年11月30日

カール=ヤスパース『哲学入門』第六講 人間

ヤスパースは書いている。

「私たちが自分に対していろいろな要求をもつことを認めるかぎり、私たちは私たちの自由を自覚しているのです。私たちが自分に対する要求を満たすか、それとも回避するかどうかは、私たちに関する事柄であります。私たちがあることを決定し、従ってまた自分自身について決定するという事実、また私たちが責任をもっているという事実、このような事実について私たちは真面目くさって論争することはできないのであります」。

「実存主義」という哲学の最も基本的なテーゼのひとつは「人間は自由である」ということである。

いかなる意味で、われわれは自由なのだろうか。やりたいことを自由にできるかといえば、決してそうではない。われわれは状況により、さまざまな制約を課せられているではないか。守ることを要求されている社会規範や道徳など、さまざまなものにわれわれは縛られているのではないだろうか。むしろ、われわれは不自由を感じているのではないだろうか。

前講で「選択」について書いたが、人は選択の自由を持っているだろうか。逆に、限られた選択肢しか与えられていないというのが事実ではないのか。

これらのことは、「人間は自由ではない」ということを示しているように思われる。

だがそうではない。

われわれが何かに縛られていると感じるのは、そのある束縛から逃れようとする限りにおいてである。社会規範が重くのしかかってくるのは、その社会規範から外れようとするわれわれの意志に対してである。限られた選択肢しか与えられていないと感じるのは、それら以外の選択肢を選び取りたいというわれわれの欲求がある限りにおいてなのである。

こういった企図、意志、欲求を持ちうることにおいて、人は自由なのである。

人生における障碍は、それを乗り越えようとする企てにおいてのみ、障碍でありえるのである。そしてそれを乗り越えようと企図することにおいて、あるいはそれを回避することにおいて、人は自由なのである。
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2008年11月13日

カール=ヤスパース『哲学入門』第五講 無制約的な要求C

無制約的なものとは要するに超越的なものである。超越的なものなのでどうしても言葉で表わすのは困難になる。サルトルならおそらくそれを「自由」と呼ぶのだろう。

さて、ヤスパースは次に善と悪の問題へと入っていくのだが、善や悪といった倫理の問題は哲学の問題であるとはわたしは考えていない。ヤスパースや、あるいはカントといった哲学者、あるいはかなりの多くの人たちは、倫理的な問題も哲学の問題として捉えているようだ。あるいはそれこそが哲学の問題だと考えている人もいる。つまり「人はどう生きるべきか」のような問いを、である。

哲学とは考えることである。考えるとは論理的であることである。論理的に考えて答の出ない問いは即ち哲学の問いではないということである。「人はどう生きるべきか」のような問いに論理的な答はありえない。したがってそれは哲学が扱う問題ではない。これがわたしの立場であり、かのウィトゲンシュタインもこの点ではわたしに同意してくれるであろう。

もとよりこのような倫理的な問いが大切な問題であることは確かであるが、それに対する答は各人がそれぞれの生きていく過程において見つけ出さねばならないものなので、わたしとしてもここでは善悪については「沈黙」を守ることにしよう。

ただし「実存主義」という哲学の性格からしてどうしてもヤスパースの哲学は倫理的なものに触れざるをえない。もちろんそれが「実存主義」の魅力でもある。たとえば次のヤスパースの言葉を読んでみよ。キルケゴール(実存主義の祖と呼ばれている)を髣髴させるではないか。

「いずれの場合にあっても、二者択一が、したがって決断の要求が、現われております。人間は、本質的になるかぎりにおいてのみ、これかあれかを欲することができます。彼は傾向を追うか、義務を追うかのどちらかです。彼は本末を転倒するか、自己の動機の純粋性を守るかのどちらかです。彼は憎しみによって生きるか、愛によって生きるかのどちらかです。しかしこの決断を彼は放棄することができます。私たちは、決断するかわりに、生涯をふらふらしてすごしていって、これとあれとを結合し、そしてこのことを必然的矛盾として承認したりさえするのです。この非決断性はすでに悪なのであります。人間は、善と悪とを区別するとき、はじめて目ざめたのであります。彼は、自分の行動において彼が目ざすところが決定されるとき、自己自身となるのです。」


人生を選択の連続ととらえ、そのつどの選択において自分の人生を選び取り自己を創りあげるという思想は、わたしやサルトルの根本思想でもある。ヤスパースとは相容れない点は多々あるものの、この点においてはヤスパースに同意できる。

では次の章へと進むとしよう。(次回へ続く)


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2008年11月08日

カール=ヤスパース『哲学入門』第五講 無制約的な要求B

前回、連帯責任という言葉が出てきたところで、終えていた。

さて、倫理や道徳は、本来、理性的である人間の内面から出てくるものであって、上からの押付けではない。だからこそヤスパースもここで無制約的なものとして連帯責任をあげているのだ。いいかえれば、倫理的に生きるということが無制約的な生きかたということであろう。

「このことは元来相互信頼である共同体において行われたことなのでありますが、それだけでなく、今度は、信仰的な権威の天下り的な命令のもとでも行われたのです。その結果このような権威にたいする信仰が無制約的なものの源泉となるようになったのです」

つまり、本来は「信仰的な権威の天下り的な命令のもとで」は行われたわけではない「倫理的な生きかた」が、「信仰的な権威の天下り的な命令のもと」においても行われるようになり、「倫理的に生きる」ということが、本来はそうではないにもかかわらず、信仰に基づいたものと思われるようになった、というわけである。したがってヤスパースは次のように続けるのである。

「このような形態の無制約的なもののうちには、一種のひそかな制約的なものが隠れていたのです。すなわち権威の作用が隠れていたのです。ところで信仰者は彼の従順さによって生きようとしました。ところが権威がもはや権力としての作用を失い、それとともに、この権威に対する信仰もまた崩壊したとき、破壊的な虚無が発生したのです」

ニーチェのいうニヒリズムの到来である。そしてこのニヒリズムを乗り越えるために、続いてヤスパースは、実存主義者の実存主義者たる所以である言葉を発するのである。

「このような虚無からの救いは、いまや、本来の存在であり、自己の決断の根拠をであるものを自由によって獲得するという、個人としての人間それ自身への要求以外にはありえないのです」

この「個人としての人間それ自身への要求」が無制約的な要求なのである。つまり、「無制約的な要求」とは、具体的にはさっぱりわからない、ということである。そしてそれは具体的な答などない、ということである。

「無制約的な要求は、その根拠を私自身のうちにもっているのです」

「無制約的な要求は、私自身のうちにあって、単に私自身ではないところのものが、私を内面的にささえることによって、私の内から発するものであります」

「無制約的な要求は、私の単なる現存在に対する私の本来的な自己の要求として、私に迫ってくるものであります」

かくて、何が無制約的なものを要求するのか、という問いにヤスパースはこう答えるのである。

「この無制約的なものは、目的を設定するものとしてあらゆる目的に、先立っています。それゆえ、無制約的なものは要求せられるものではなくて、それから要求が生れるところのものなのであります」
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2008年11月04日

カール=ヤスパース『哲学入門』第五講 無制約的な要求A

何が無制約的なものを要求するのか。

本来、何かに要求されるのなら、それだけでそれは「無制約的」とはいえないのではないだろうか。「無制約的」とは単純に考えて、なにものにも制約されないというほどの意味だと思うからだ。

「無制約的なものの実現によって、現存在はいわば理念・愛・忠誠の質料となるのであります。それは永遠的な意味の中へ取り入れられて、いわば自己が無に化し、しかも単なる生の恣意に放任せられることがないのであります」

普通に考えれば、人は理念を求めるし、愛に縛られるし、忠誠とは「主人」のために尽くすものだし、ぜんぜん無制約的ではないではないか、となりそうなものだ。だがそうではない。ここで大切なポイントは「自己が無に化し」というところなのだ。つまり、なにものにも制約されないというのは自己が無化することなのである。ここでヤスパースは自己を無にしなければありえないものとして理念や愛や忠誠といったものをあげているのだ。私利私欲に基づいたものは理念ではないし、男女間に限定された愛のことではないし、打算的なへつらいは忠誠ではない。

さらにヤスパースは続ける。

「限界において、すなわち例外的な状況において、はじめて、無制約的なものによる献身は、あえて現存在の喪失となることもあり、不可避的な死を引受けることもできるようになるのであります」

さて、いったい何が無制約的なものを要求するのであろうか。理念や愛や忠誠、また不可避的な生を引受けることは、無制約的なものから生じるのであって、それを要求するものではない。

「人びとは、たとえば、この世における共同生活のための連帯の戦いにおいて、自分の生命を賭したのであります。連帯責任は、それによって制約された生活にとって無制約的なものであったのです」(念のために言っておけば、「それによって制約された生活」の「それ」とは「連帯責任」を指すのではなく「生活」自体を指している。そう理解しなければこの一文は意味をなさない。)

ヤスパースは、連帯責任が無制約的なものだと言っている。なんだって?!と思わず聞き返したくなるではないか。われわれにとって連帯責任はむしろ、われわれを縛り付ける制約的なものに思われないだろうか。

「倫理」や、とくに道徳というと、上から押し付けられたものというイメージをわたしは持っている。「道徳教育」などと政治家が語ることでその感はより強くなる。「道徳」も「教育」も上からの押し付けであるように思われるのは、おそらくは明治期の日本にその源はあるのだろう。最近、日本の近現代史に関する本を少し読んでいるのだが、いかに明治期の日本が国家全体主義であったかには驚くべきものがある。「幕末の志士」や「明治維新」、「文明開化」などという言葉からする明治の華やかな面は、その全体主義的な体質によって帳消しにされるべきだと思う。日本の近現代史に関しては、もっと徹底的に明治期の日本を批判すべきなのである。

話がそれたので、ここで今回は終了。
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2008年11月03日

カール=ヤスパース『哲学入門』第五講 無制約的な要求@

無制約的なものとは何か。

「無制約的なものの特徴は」とヤスパースは書いている。「行為が基づくところのものは、それに比べると、生は全体的に制約されていて、究極的なものではないようなあるものであるということです」。

無制約的な行為と比べれば、生きていることさえも、究極的なことではない。むしろそれは、死を受け入れることである。死といってもネガティブなものではない。「明るい気持ちで死ぬ」ことや、死を前にして「取り乱すこと」のないような、そういった行いが、おそらくは無制約的な行為と呼ばれるのではないだろうか。

ひとは誰しも死にたくないと思う(普通は)。明るい気持ちで死んだり、死を前にして取り乱さないということが如何にして可能なのだろうか。

われわれの行動はすべてなんらの要求に応えてのものである。食事をすることは生きるためである。「生きる」ということが食事を要求しているのだ。食事をするにはお金がかかり、そのことが、お金を稼ぐことを要求し、お金を稼ぐということが働くことを要求しているのである。

では、無制約的な行為をいったい何が要求しているのだろうか。

(きょうは事情によりここまで)
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2008年11月01日

カール=ヤスパース『哲学入門』第四講 神の思想B

「人は誰でも哲学において、彼が本来すでに知っていたものを理解するのであります。」

至言である。

たとえば言語分析。われわれは未知の言語を分析するのではない。日常で十分使いこなしている言語を分析するのである。そしてその分析によって、その言語をより深く理解できるようになるわけではない。分析によってしていることは、すでに知っていることをより明晰にするだけのことである。

このことは、哲学をすることによって、何か新しい知識が身につく、といったことはないということを意味する。あるいは、哲学というのは知識を身につけることではない、ということを意味する。たしかにヤスパースの本を読めば、ヤスパースがこう言った、ああ言った、という知識は得られるであろう。しかしそのことは哲学とはいわれないのだ。

哲学とは知識ではない。それは生き様に関わるものなのだ。もちろんそれは生活の知恵などといったものではない。ヤスパースは言っている。

「哲学的な思想は応用されません。むしろそれは、人間自身はこの思想を遂行することにおいて生きるとか、生活は思想を持って貫かれている、などという言葉で示されうるところの現実なのであります。」

(この言葉はウィトゲンシュタインの「哲学とは学説ではなく実践である」を思い起こさせる。)

そう、哲学とは、われわれの生活の根底にあるものなのである。
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2008年10月30日

カール=ヤスパース『哲学入門』第四講 神の思想A

神が果たして存在するかどうかは問題ではなく、信じているかどうかが問題なのである。

ところで、神を信じているという基準はどこにあるのか。

その人の生活の中にある。その人の行いの中にある。

神に限らず、何かを信じるということは、何らかの形で「信じている」ということが生活に反映されていなければならない。そうでなければそれは「信じている」のではないのだ。

神を信じている人は、神に祈り、神に感謝するだろう。そういった行動をとることが、彼が神を信じているという基準になるのである。つまり、神が実在するかどうかとは、やはり関係はない。

あっ、ここにわたしが書いていることは、ヤスパースの本とはなんら関係がない。ただ「神の思想」という章題からの思い付きである。

ヤスパースが神を持ち出して何かを語ろうとすることもまた、彼が神を信じているということを示している。

わたしは神を信じてはいない。だが、ヤスパースが神と呼んでいるものは信じているのかもしれない。

「神を信仰するということは、私たちが超越者の暗号とか象徴とか名づけるところの現象の多義的な言語として存在する以外には、いかなる仕方においても、この世界内において存在しないようなあるものによって、生きることをいうのであります。
 信仰せられる神は、遠い神、隠れた神、証明不可能な神であります。」

ここでヤスパースが書いていることは、神が存在しないということである、とわたしなら解釈する。だがわたしには、「神」という言葉をのぞけば、ここでヤスパースが言わんとしていることはよく解るのである。

だが哲学に関しては、ヤスパースはここでいう「超越者の暗号」を読み取るのが哲学することであると言う。

しかし、言語を超えたものに対しては、言語で理解できるものではない。哲学とはむしろ、それが我々の理性を超えているということを正しく理解することではないかと思う。
posted by nasty_habit at 23:16| 兵庫 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月29日

カール=ヤスパース『哲学入門』第四講@

いきなり第四講かよ、という声などものともせず(実は、この間、何が書いてあるのかさっぱりわからないのですふらふら)、続けるとしよう。

第四講 神の思想

「現在の哲学者は、神が存在するかどうかという問題を回避する傾向があるように見受けられます。彼らは神の存在を主張もしなければ、否定もしないのです。しかし哲学する者は答弁を求められている者であります。神について問われたならば、哲学者は何らかの答えを与えなければなりません。そうでなければ、彼らは、一般に何事も主張せず、何事も肯定せず、何事も否定しないところの懐疑的哲学の立場を放棄していない者であるか、あるいは、彼は、自分の立場を対象的に規定された知、すなわち科学的認識に制限して、我々は知ることのできぬ事柄に関しては沈黙を守るべきである、という命題をもって、哲学することをやめるものであります」

神という概念が明確ではない我々には、あまり関係のない一文に思われます。もちろん、問われれば答えなければいけない、ということには同意しますが、我々は神の存在も主張しないし、否定もしないというのが一般的ではないでしょうか。にもかかわらず、我々は何かを主張することはできるのです。

ところで、ここには、第一講にかかわる問題、すなわち、哲学とは何かに関する発言があります。哲学的問題に対して、それの答えを必死に追求し続けるか、あるいは、その問題そのものが消滅することを目指すのか。

が、この態度の違いは、両立し得ないものなのでしょうか。わたしはどちらかといえば後者の態度に与するのですが、それでも、そのこともまた、答えを必死に追及し続けていることのような気がするのです。
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2008年02月21日

カール=ヤスパース『哲学入門』第二講@

第二講 哲学の根源

哲学の根源は三つある、とヤスパースは言っています。

「驚きから問いと認識が生まれ、認識されたものに対する疑いから批判的吟味と明晰な確実性が生まれ、人間が受けた衝撃的な動揺と自己喪失の意識から自己自身に対する問いが生れる」

驚きと疑いから、日常のありきたりのものをながめると、今までと違ったように感じられます。そして、当たり前のものがほんの少し、当たり前ではなくなったとき、いままで自分の立っていた足場がぐらつき、動揺を覚えるのです。

このことに関連して、ヤスパースは「限界状況」という興味深い概念を提出します。

「私は死なねばならないとか、私は悩まねばならないとか、私は戦わねばならないとか、私は偶然の手に委ねられているとか、私は不可避的に罪に巻き込まれているなどというように、たとえ状況の一時的な現象が変化したり、状況の圧力が表面に現われなかったりすることがあっても、その本質においては変化しないところの状況というものが存在します。私たちはこのような私たちの現存在の状況を限界状況と呼んでいるのであります。すなわちそれは私たちが超え出ることもできないし、変化さすこともできない状況が存在するということであって、これらの限界状況はかの驚きや懐疑についで、哲学のいっそう深い根源なのであります」

「限界状況」というのは哲学的キーワードになりそうですが、ヤスパースのいう限界状況の概念として、「私たちが超え出ることもできないし、変化さすこともできない状況」というのは同意できますが、その具体例となると、どうも納得はできません。

私の考える「限界状況」とは論理概念になります。論理的に起きえないことは起きえないし、現に起こっていることはすべて論理的に起きえることのみです。このことこそが、「私たちが超え出ることもできない」ものですし、「変化さすこともできない」ものなのです。
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2008年02月17日

カール=ヤスパース『哲学入門』第一講A

第一講 哲学とは何ぞや(承前)

さて、この第一講のタイトルは「哲学とは何ぞや」です。では、哲学とは何でしょうか。切れぎれにではありますが、ヤスパースの言葉を拾ってみましょう。

「哲学の本質は真理を所有することではなくて、真理を探究することなのであります」

「哲学の問いはその答えよりもいっそう重要であり、またあらゆる答えは新しい問いとなるのであります」

「哲学とはなんであるかということは、私たちによって実験されなければならないことなのです。かくて哲学は生きた思想の実現であり、またこの思想への反省であります。あるいは哲学は、行為であり、この行為について語ることであります。自己自身の実験からして、初めて私たちは、世界の中において私たちが哲学として出会うところのものを感得することができるのであります」

「現実を根源においてみること」

「哲学とは人間が現実と関係をもつことによって、人間自身となるために必要な『集中すること』であります」

すくなくとも、ここで述べられている哲学とは、誰かの哲学的思想や、哲学史などを系統的に勉強することとは違います。そういった勉強も、哲学することの役には立つでしょうが、必ずしも本質ではないのです。
posted by nasty_habit at 23:41| 兵庫 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 哲学入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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