2008年12月01日

色と数

「赤い表紙の本」がある。

目の前には「8冊の本」がある。

だが、「赤」や「8」はどこにあるのだろうか?
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2008年11月27日

正しさについてのメモ

自分の信念が正しいという基準は何か?

そもそも何かが正しいとはどういうことなのか?

その絶対的な基準はあるのだろうか?

正しいことは良いことなのか、それとも良いことだから正しいといわれるのか?
だとするとこれは価値の問題であり経験的な問題であり相対的な問題である。

だが相対主義にはどこか間違ったところがあると、わたしには思えるのだ。

あるいはこれもプラトニズムの問題のなであろうか?
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2008年11月19日

哲学の諸問題

事実と価値の問題。
すなわち、「経験的な正しさは絶対的な正しさではない」ということに関して。

アプリオリな概念について。

言語の意味。

真理とは何か?

等々、さまざまな問題を抱えています。

なんとか、答を出して生きたいと考えております。
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2008年11月17日

日常言語の複雑さ

昨日の続きである。

ある論理学の本に、次のような一節があった。

いわく、

「このアパートに10年以上住んでいる人はみな家賃半額です」という大家の言葉は、10年以上住んで半額家賃になった人がいなくても、ウソだと決めつけるわけにはいかないだろう。そもそも10年以上住んだ人がまだ1人もいないかもしれないからだ。


この大家の発言が未来にかんする言明であるならば、それはウソでも本当でもない。だがこれが現状についての発言であるならば、どうであろうか?

さらに、このような例はどうだろうか。「18歳未満入場禁止」と張り出されている劇場に、18歳の男が入ろうとしたら入り口で係りの者に止められた。「ぼくは18だよ」というと、係りの人は「18歳はご入場いただけません」と答えた。「18歳未満というのは18歳はオッケーということではないの?」と聞き返すと、「あの張り紙は18歳未満入場禁止だとしか書いていません。18歳以上は入場可とでも書いていますか?18歳以上の方については何も書いてませんね?実は、18歳以上の方も入場禁止となっております」。

われわれはこの係りの人の言い分に納得すべきであろうか?

ある言明は、それが発話される情況によって、その言明が語っている以上の意味が付与される。「情況によって」というより、ある言明を発話するという行為が、その言明の字面以上の意味を生み出すのである。

ここに日常言語の複雑さがある。




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2008年11月16日

∀xFx≡〜∃x〜Fxは納得できるか?

∀xFxは、すべてのxはFである、という意味である。

〜∃x〜Fxは、Fでないxは存在はしない、という意味である。

さて、「すべてのxはFである」は「Fでないxは存在しない」と同じ意味になるだろうか?

もちろんすべてのxがFならば、Fでないxは存在しない。納得だ。

そうだろうか?

日常言語に置き換えてみよう。

すべての人は天才である。(論理学の教科書ではよく「すべての人は死ぬ」などという例が使われるが、わざわざこんな例文を用いる必要はないだろうに。)これはもちろん天才でない人はいないという意味だ。

ここで考えたいのは、人が存在しない場合についてである。

人が存在しないのだから、当然のこと、天才でない人も存在はしない。天才でない人はいない、というのが正しいのであれば、それと同値である「すべての人は天才である」も正しくなる。

だがどう考えても、人が一人もいないのに、「すべての人は天才だ」というのが正しいとは思えない。たとえば、宝石を一つも持っていない人が「俺のもっている宝石はすべて本物だ」と言えば、嘘をついたことにはならないというのだ。おかしいだろ、これは。

このことはすなわち、日常使われる「すべての人は天才だ」というような文の論理構造は、∀xFxというような単純なものではない、ということなのである。

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2008年11月11日

反プラトニズム

例として三角形を考えよう。

いったいこの世界に三角形が存在しているのだろうか。

三角の形をしたおにぎりや、三角の形をした石などは存在するが、それはもちろんわれわれが幾何学(であっているのか?)で考える三角形とはまったく違う。プラトニズムによれば、幾何学的な三角形こそ真の三角形だという。だが、そんなものはこの世界には存在していない。

プラトンによれば、人間のイデアというものがあるという。が、実際に存在するのは、ひとりひとりまったく違った個性豊かな個人個人である。人間のイデアとやらにぴったりとおさまる人間など一人もいまい。

わたしはあるいはプラトンやプラトニズムを誤解しているかもしれない。間違っているかもしれないが、ほとんどの人が、たとえば「平均点」や「普通の人」といった言葉で何かを意味しようとするのは、その背景にプラトニズムがあるのだと思う。

したがって、主体的な個人を考えるときに、このプラトン的なイデアという考えがなければ意味をなさない「平均」や「普通の人」といったことを考慮するのは、大きな誤りではないか、と思うのである。

と書き出したものの、なかなかうまく文章にならない。

結論を端的に述べると、イデアは存在しない、ということなのだ。

いや。これは結論ではなかった。

こう書くべきであろう。

現在、ほとんどの人はプラトンの呪縛の中にいる。意識はしていないかもしれないが、たしかに彼らはイデアの存在を信じている(だからすぐ「平均値」を求めたり、あるいはアンケートなどをとったりする)。

だがイデアは存在しないとなると、どうなるか。

世界の見方が、抜本的に変わるのである。そしてこのことは、すべての人びとにとって、よりよい世界の見方をもたらすのである。
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2008年11月07日

日常言語と論理的分析

「スマリヤンの決定不能の論理パズル」という本の主な舞台は「騎士と奇人の島」である。その島では騎士は本当のことしか言わず、奇人は間違ったことしか言わない。そしてすべての住民はどちらかなのである。

「この島に関する基本的な事実に」とスマリヤンは言う、「住人が『私は奇人である』と言うことが絶対にない」。当然だ。騎士は自分が奇人であると嘘を言うことはないし、奇人は嘘しかつけないのだから自分が奇人であるとは言えない。

では、「私は騎士ではない」はどうだろうか?この島には騎士と奇人しかいない。したがって、騎士ではないということは奇人であるということである。つまり、「私は奇人である」という発言同様「私は騎士ではない」ということも絶対にありえない。……

この本は論理学の本である。基礎からゲーデルや様相論理までカバーする、かなり難しい本である。実はまだ基礎的なところしか読めていない。基礎的なところは比較的日常言語で書いてある(第5章あたりまで)のでわかりやすい。

たとえばマグレガーという国勢調査員がこの島のある夫妻を訪ね、「あなた方お二人は、それぞれ騎士と奇人のどちらですか」と尋ねた。返ってきた答は「両方とも奇人だよ!」だった。さて、夫と妻、それぞれどちらに属するか?(答えたのは夫のほうである。)スマリヤンの答は以下の通り。

もし夫が騎士だとしたら、自分と妻の両方が奇人だと言ったのはおかしい。したがって彼は奇人である。奇人である以上、彼の言ったことはまちがいである。つまり両方とも奇人だということはない。したがって妻の方は騎士である。答は、夫が奇人、妻が騎士。

なるほど。何も難しいことはなく、納得である。……

・・・…である、か?

わたしは少々納得しかねる。なぜか。夫は確かに「両方とも奇人だよ!」と答えた。そしてそれは、スマリヤンの言うように「自分と妻の両方が奇人だ」という意味である。「自分と妻の両方が奇人だ」ということは「自分(私)は奇人であり、妻も奇人である」ということである。「私は奇人であり、妻も奇人である」ということは、「私は奇人である」と「妻は奇人である」ということである。つまり、「両方とも奇人だよ!」という発言は、『「私は奇人である」かつ「妻は奇人である」』ということを意味している。さてしかし、「私は奇人である」という発言はこの島では絶対にありえないことである。絶対にありえない発言を含意する発言が果たして可能なのか。この夫はなんの躊躇もなく「両方とも奇人だよ」と言えたのだろうか。この夫が文字通り「私は奇人だし、妻も奇人だよ」と発言することは可能だったのだろうか。あるいは「私は奇人だし、妻も奇人だよ」という発言は、「私は奇人」という言明が入っているゆえに発言不可能なのだろうか。かりに不可能だとしてもこの発言が「両方とも奇人だよ」と論理的に同値(言ってることは同じ)であることには変わりはない。すると、同値の言明なのに一方が発言可能で一方が発言不可能とはどういうことなのだろうか?そういったことがありえるのならば、「私は奇人である」という発言が絶対にありえないことであっても、「私は騎士ではない」という発言は可能だということにもなるのではないか。……

さて、このような困難が生じるのは、設定の不自然さによる。通常は、「両方とも奇人だよ」という発言は「両方とも奇人である」を意味する。そこには何の問題もなく、日常言語とはそのようなものである。

さらにここには、日常言語を記号論理学的に分析することが可能かどうかの問題もある。もちろん日常言語を論理的に分析できなければ何のための論理学かという話になるのだが。

ただわたしが言いたいのは、「両方とも奇人である」という命題を分子命題とみなし、「夫は奇人である」という原始命題と「妻は奇人である」という原始命題と「かつ(&)」という論理的結合子に分析することは、思っているほど単純ではない、ということである。
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2008年10月29日

スマリヤンのパズル

レイモンド=スマリヤンの紹介するパズルにこんなのがある。(「スマリヤンの決定不能の論理パズル」より)

賞品1と賞品2の2つの賞品があって、あなたは何かを口にすることになっている。もしあなたの言ったことが本当なら、私は2つのうち(どちらかはわからないが)片方の賞品をあなたにあげることにする。もしまちがったことを言えば、どちらもあげない。たとえば「1+1=2」と言えば、どちらかの賞品が確保できるのは明らか。どころが、あなたはどうしても賞品1がほしいとする。賞品1を確実に手に入れるには、なんと言えばよいだろう?


スマリヤンの答と解説は次の通り。

「あなたは私に賞品2をくれないでしょう。」もしあなたの言ったことがまちがっていると仮定すると、私は賞品2をあげる、ということになる。ところが、まちがったことを言えばどちらの賞品もあげられないのだから、この仮定はまちがっていて、あなたはまちがっていない、つまり正しいことをいったことになる。正しいことを言ったのだから、あなたの言うとおり、私は賞品2をあげることはできない。しかし、あなたが正しいことを言った以上、私は約束に従って片方の賞品をあげなければいけない。そして、それは賞品2でない以上、賞品1になる!


しかしこれはおかしい。

「あなたは私に賞品2をくれないでしょう。」という発言に真偽を問えるのだろうか。つまり、将来に対する言明に、いま現在の時点で、真偽を決定できるのかということである。できない、というのがその答である。この発言は「窓を開けろ!」という命令文と同様、真偽の問える発言ではないので、この種のゲームに適した発言ではない。

スマリヤンよ、大丈夫か?!
posted by nasty_habit at 22:08| 兵庫 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月14日

わたしとは何か

「我思う、ゆえに我あり」というのは、おそらく何も言っていないのに等しい。

もちろん激しい睡魔に襲われたからといって、それでわたしの存在が証明されるわけでもない。

ここでは「証明」など必要とされていない。わたしはじっとわたしの手を見る。それで十分だろう?

ではここでわたしの手をじっと見ている<わたし>とは何だろうか?

たとえば、昏睡状態のとき、自我は消失しているのだろうか。
あるいは、怒り心頭で思わず我を忘れてしまうときに、実際のところ、いったい何を忘れているのだろうか。
二日酔いの頭を抱え、昨夜の記憶がまったくないとき、あの酩酊していた夜に失ったものは何だったのか(財布や部屋の鍵だったりする)。

何かが消えているのかもしれないが、<わたし>ではない。なぜなら、後から、これらの状態にあったのはわたしだったと言えるからである。<わたし>とはこれらの状態のときに失われるものではない。

では、<わたし>とは何だろうか。

たとえばこの身体を「わたしの身体」と呼ばれるものにするのは<わたし>である。

これ以上問うことは、ないはずだ。

以下、ウィトゲンシュタインの『哲学的探求』より引用する。

このことは、言語、命題、思考の本質を問うことのうちに表明されている。――なぜなら、たとえわれわれが自分たちの探求の中で言語の本質――その機能や構造――を理解しようと努力しても、それはこのような問いの目指しているものではないからである。つまり、こうした問いは、本質なるもののうちに、すでに公然と明るみに露呈しているものや、整理することによって、一目瞭然となるものを見てとっておらず、何か表面の背後に横たわっているものを見ているからである。それは、内部にあるもの、われわれが事がらを見通したときに見るもの、そして分析によって掘り出されるべきものだ、というのである。
<本質はわれわれには隠されている>これがわれわれの問いのいま仮定している形式である。われわれは「言語とは何か」「命題とは何か」と問う。そして、これらの問いに対する答えは、一度に、いかなる将来の経験とも無関係に、与えるべきものだというのである。

哲学者たちが語――「知識」「存在」「対象」「自我」「命題」「名」など――を用いて、ものの本質を把握しようとしているとき、ひとは常に次のように問わなくてはならない。いったいこの語は、その元のふるさとである言語の中で、実際いつもそのように使われているか、と。――


posted by nasty_habit at 15:26| 兵庫 ☀| Comment(3) | TrackBack(1) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月12日

君はいま夢を見ていないとどうして言えるのか

ソクラテスは言う(わたしが直接聞いたわけではないが)。

「それはたびたび君が人々の問いとして聞いたことがあるだろうと僕は思うんだが、もし誰かが今この場で、われわれは眠っているのだろうか、われわれの考えているのは、これは皆夢なんだろうか、それとも、われわれはこれで覚めているんで、お互いに話し合っているのは、これは現なんだろうかと尋ねたら、どんな証拠をさし示して、人はこれに答えることができるだろうか」

古来からある哲学的なテーマ。深遠なテーマ。
わたしには馬鹿げた問いに思える。

夢は、さめなければ、夢ではないのだ。

今経験している夢のような出来事、これを、
夢かどうかを問うのは馬鹿げている。

夢が覚めぬ間は、

夢を、享受すべきである。



posted by nasty_habit at 21:40| 兵庫 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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